PHOTO作品集new !
- 葉っぱのフレディ
- 神に捧ぐ(Mexco)
- 家族(インド)
- 間もなく帰還
- 企み(エジプト)
- 孤高の標
- 旅の終わり(ロシア)
- 道しるべ(Egypt)
- 心鎮めて
- 天馬
- 心経(インド)
- 子供の心経 (ブータン)
- ライカ写真展グッズ
- 十字架
- 繋ぐ鋼鉄(Switzerland)
- STOP ! (New York)
- 都会の威圧(新宿)
- 相棒
- KAWASAKI
- 天文ノススメ(メキシコ)
- 東儀秀樹ライカ写真展
- 天竺の夜明け
- サイケな喧騒(インド)
- 目眩
- 行く先
- 夕暮れのディフェンス
- 結界(India)
- レマンの静かな輝き(Switzerland)
- 祈りの音(Bhutan)
- 親しい敵味方
- Roppongiデジタル
- 祈りの帰り(Bhutan )
- 友達(トルコ)
- 働き口(ロシア)
- 親子 2(カッパドキア)
- 鳳凰の子(インド)
子供の頃から写真を撮ることに興味があった。メカ的なモノ自体にもメカ的なモノを操る行為にも。中学生のときに父親に買ってもらったキャのネットというレンジファインダーのカメラが最初の本格カメラだった。そのカメラで絞りとシャッタースピードの関係、被写界深度のことなどを意識して撮るようになった。高校生になって中古の一眼レフ(オリンパスOM-1)をやっと手に入れたが、芸術写真を撮るというよりもなんとなくスナップ的にシャッターを切る楽しさで充分だった。暗室があるから(?)いろんな種類の奴らが集まる写真部に面白さを感じて入った。だから芸術写真を撮ろうなどというスタンスはほとんど持ち合わせていなかったのだ。それでも自分の撮ったものが現像液の中でふわっと浮かび上がってくる様子には毎回しびれた。どきどきするし、わくわくする。その後やはり中古でキャノンF-1やコンタックスなど数種の一眼レフを手にしながら細く長く、それでもある程度のこだわりを持ちながらカメラとはずっとつきあってきた。それが社会人になってからふと作品を創る方向で写真と再度向き合い直したい衝動が起き、がんばってライカのM-6を手に入れた。あのM-6を手にしたからには往年のフランスの作家たち(カルティエ・ブレッソンやロベール・ドアノーたちのこと)の作品たちを想い描きながらその気にならないわけにはいかない。モノクロのフィルムを入れ、とにかく撮りまくった。ただでさえライカMシリーズはカメラ自体が特別な重厚な美しさ、無駄のない精悍な品格を備えているから相当その気にさせてくれるのだ。あげくの果てに自宅の自室を暗室にし、作品創りに励むにいたるまで夢中になった。
そのおかげか、ものを見る視点が変わり、構図の意識、偶発的な瞬間の縁の感じ方、光りの感じ方、陰の感じ方、とらえ方が自分の中でどんどん膨らんでいった。見る角度を変えるだけでこんなにも世界が変わるのかとわくわくしっぱなしになる。その後、やはり正確に表現したいと、また一眼レフも持ち出すようになり、今ではデジタルを頻繁に使うようになった。結局フィルムもデジタルも何をどう撮るかという気持ちを結果にする上では違いなどないのだ。だとしたらプロでもないし変に銀塩にこだわることもなく僕は便利にデジタルを使えばいいというところでもある。